気もそぞろ

前のブログがうっかり消えたので

ケイトリンと夫婦茶碗

お盆休暇中、夫の家に住む家に遊びに行った。
「夫の住む家に遊びに行く」とはいかにもとんちきな言い回しだが、私は年内まで地元で仕事を続けるので、現在夫とはそこそこの遠距離で別居をしているのである。

そういった休暇中、午睡の時間であった。この夏のリアル命綱ことエアコンを入れた部屋で寝転んでいた夫であったが、どうもかなり寒かったらしい。
以前からうすうすはっきり*1感じてはいたが、夫と私では私の方が暑がりで、夫の方が寒がりのようだ。
そのとき、空調は私の体感温度に合わせてもらっていた。もちろん数年後にはエアコンのリモコンを罵り合いながら奪い合い、リモコンの角で頭を殴り合い、流血沙汰に帰結する可能性もなくはないが、現在のステータスは新婚のため、優しくしてもらっているのだった。
だが、その思いやりの代償として、当然夫のほうでは寒かったらしい。

彼はそこに、無造作に置いてあった私の部屋着のワンピースを、寝たままおもむろに手にとり、裏返しになってないか、うしろまえになっていないかを几帳面に確認すると、そのまま着用して最終的に眠りに就いた。

ロングワンピースであったため、ちょうど体をすっぽりつつみこみ、防寒着としてちょうどよかったと彼は言ったが、それはそれとして女装である。
「ほう……?」という心境であった。

2年程前、私が出席する結婚式*2のための服やくつ、ひとそろいを、事前に夫の家に送っておいたことがあった。
「荷物が届いたので、ワンピースを吊しておく」というLINEをくれた夫に、「着てもいいのよ」と送ったのと同時に「一回袖通しておくね」と返ってきたことがあり、それ以来、私はかならず、自分の服について夫に何かコメントされた際などには「着る?」と切り返してきたが、夫が実際に着用に及んだことはなかった。
結婚式用のワンピースも実際に着たわけではない*3

ところが、予期せぬところで夫が自ら部屋着といえどもワンピース着用に及んだたため、私は嬉々として夫に女性名をつけ、それを呼んで遊び始めた。当然のことである。
それは「和夫」→「和子」というようなごく単純な呼びかえであったが、夫がそれを嫌がったため、じゃあどんな名前であればいいのかと問いかけた。
どんな名前でもイヤだと返ってくるかと思いきや、夫は「ケイトリン」と答えた。
一見して突拍子もないが、その実、夫は、思春期~青年期という、人生でもっとも多感な十年間をアメリカで過ごしたというてい(※あくまでていにすぎない)でアメリカにかぶれているため、こちらとしては「ケイトリン、さもありなん」である。

こうして、新キャラ、「私の女友達、ケイトリン」が突如爆誕した。ワンピースを脱ぐといなくなるという世にも雑な設定である。
なおケイトリンはすぐに寝てしまい、起きた直後にはいなくなってしまったため、女友達といいつつ彼女との親睦はろくに深まらないまま、私の休暇は終わった。

そして本日である。
夫の職場の方から結婚祝いに夫婦茶碗を頂戴したそうで、その写真が送られてきた。
かれこれ一億年は行ってないINOBUNの箱のなかに、かわいらしい柄の青と赤の夫婦茶碗が並んでいる。お箸と、ふくろうの形をした調味料入れもふたつ入っていた。
ふたつの茶碗に箸、それから二羽のふくろう。わたしのあたらしい家庭というものが手てのひらにおさまるとてもかわいらしい形になったように見えて、思わず顔がほころんだ。
お心遣いが大変ありがたく、胸があたたかくなるのを感じた。主に罵詈と雑言で構成された我が胸には非常にめずらしい事態である。

と同時に、やっぱりこの場合、これは私が「赤」の茶碗をつかうことが想定されているのだろうと思った。
今まで夫婦茶碗について深く考えたことも、なんならまじまじとみたこともなかった*4ため、非常に新鮮な気持ちがした。
私は赤と青なら、ハナ差で青の方が好きなのだが、ジェンダーカラーは、個人の好みとは別になされている、「定義」にほかならないのだなということがはじめて実感され、感慨ぶかかったのだ。

夫は青、妻は赤。

ごく小さかった頃の自分の写真をみても、それらしい色の服を着ていたわけでもなく、子どもの頃、好きな色は「青」で通した私には、ほんとうにはじめてのことで、とても新鮮だった。
もっとも、ここでそれをいい、悪い、と定義するつもりは毛頭ない。二元論は嫌いである。ただ、わたしには新鮮だった、というそれだけの話にすぎない。

それだけの話にすぎないが、ふと、私が青を使うので、ケイトリンが赤をつかってはどうか? と思い立った。
女友達と夫婦茶碗を共有するとは、もはや設定がぶれているどころの話ではないが、もともとあってなきような設定である。そもそも設定ということばを使うことすらまずおこがましい。
そして、もしかするとケイトリンは赤が好きかも知れない。
そこでケイトリンに、青は私が使うから、ケイトリンが赤を使ってね? と提案してみたが、ワンピースを着ていないケイトリンはただの夫であり、夫は「ケイトリンは行っちゃったよ」と教えてくれた。

夫は自らの女装に対する警戒心が強い*5ため、わたしはケイトリンとは、もうなかなか会えそうにはない。
ただ、もし万一もう一度ケイトリンに会えれば、そのときだけは私が青の茶碗で食べ、ケイトリンに赤い茶碗を出してみようと思う。

*1:この矛盾した言い回しが好きなのです

*2:夫の家の近隣で催された

*3:はずだ

*4:わが家にはない

*5:なにかのフラグにならないことを祈っている

貴族としての生活のおしまいに

独身最後の週末を迎えている。

正邪・善悪・貧富。そもそもなんでも二元論・答えは二つに一つ……という風にくくること自体がばかばかしいとはつねづね思いつつ、今あえてそれをするなら、今の私は独身者であり、週明けの私は既婚者である。
あまりに感慨深い転換ではあるので、一言書き残しておくことにした。前のブログはサーバー代払うの忘れて消えました。

「独身貴族」という言葉があるが、今思い返してみれば、私の独身の日々は大変に気ままで、楽しく、まさしく絵に描いたような貴族的生活だったと総括できるように思う。
いや、貴族的、というより、ほぼ貴族だった。ほぼというか、もう貴族、貴族そのものだった。
とはいえ私は、領地を持つわけでもなく荘園があるわけでもない、独身という爵位は保持しているが実際は月給取りとして労働に従事しているタイプの大変現代的な貴族ではあり、しかしそこで得た元手を糧にすることで、貴族としての生活を謳歌してきた。
はやりのファッションには滅法疎いが、晩婚化という流行のビックウェーブにだけは乗りに乗り、なんなら人よりやや長めに貴族として生きてきたし、一時はこのまま一生貴族として生きるのも悪くはないな……とすら思っていたこともある。

なんせ、物見高くて遊山好きの、きままな実家暮らしであった。休日ならば惰眠も旅行も思うまま、母は相変わらずおもしろく、父は穏やかで、近年は大人しいときのカオナシのような感じですごしている。
仕事に行くときも帰るときも山がみえて、こちらが辛かろうが楽しかろうが、常にそこに同じ形である。それをながめて、毎日広い川を渡る。川を渡らない日も、山を見ない日もないので、心の中で勝手に友だちだと思ってきた。人間の友だちもいる。私の友だちは、みんな私より賢明で冷静で、すてきな人たちである。
暮らしている街が好きで、まわりにいる人が好きで、自分の持てる力の限り働いた。だから私は貴族だった。
今まで、ほんとうにとっても楽しかった。夏休みの一番楽しかった日の夜のような語彙力のなさで「とっても楽しかった」としか言うことができない。
問題の多い性格であるという一点ゆえ、人に対する不義理も多く、思い返せば頭を抱えざるを得ないような所行も多くあるけれども、それでも貴族(=独身)としての私の人生をくくるとすれば、大変にいい人生だった。周囲にはただ感謝の一念である。

そうして私は結婚をする。爵位を返上し、収入源であった仕事を辞め、日々親しんだ山河、父母、友のないところに行くのだという。
いったいぜんたいなにゆえでしょう? と考えてみるけど、こたえはとっても簡潔にして明瞭なのだった。

そんなわけで、愛ゆえに今週で貴族はやめるけれど、だからこそ裸一貫、実にすがすがしくもある今、次はなんになろうかなと今考えている。
配偶者を得こそすれ、まさか奥さんや家内になんかなるわけもないのだし、じゃあ貴族とは方向転換して吟遊詩人にでもなろうか。
いや、それではいまいち冴えない。もっといいものが後から思いついたなら、それになります。

何になっても、今後とも何卒宜しくお願いいたします。
ポケモンGOやってたらフレンドになりましょう。>各位